鳴子温泉の地理
私たちが活動する鳴子温泉郷は宮城県北西部に位置する温泉地です。
奥羽山脈を隔てて山形県、秋田県と県境を接し「東北のへそ」に位置しています。
鳴子火山群、鬼首(オニコウベ)、2つのカルデラがあり「栗駒国定公園」に指定されています。その盛んな地熱活動の恩恵で、源泉の総数は約370本。
温泉郷内には、川渡、東鳴子、鳴子、中山平、鬼首の5つの温泉地があり「国民保養温泉地」に指定されています。日本にある10種の泉質のうち、7種を楽しむことができます。
- 塩化物泉
- 炭酸水素塩泉
- 硫酸塩泉
- 含鉄泉
- 酸性泉
- 硫黄泉
- 単純温泉
歴史
古代
- 837年(承和4年)4月:『続日本後紀』に温泉石神からの報告として、温泉湧出の記載がある。
- 927年(延長5年):『延喜式』に温泉石(ゆのいしの)神社、温泉(ゆの)神社が記載される。
中世
13世紀に順徳上皇が著した『八雲御抄』には陸奥の名湯として名取湯、佐波湖湯、玉造湯の三湯があげられている。「小黒崎」「美豆の小島」などが歌枕の地として都に知られ、四条天皇、順徳天皇らが歌を詠んだ。
近世
仙台藩の岩出山伊達家の知行地であった。文化文政期には仙台領内で最も繁盛した湯治場となった。
- 1632年(寛永9年):遊佐氏が湯元に湯治人宿「遊佐屋(現:ゆさや旅館)」を開く。湯守の遊佐氏は代々勘左衛門を称した。
- 1689年(元禄2年)5月14日:平泉から岩出山を経て出羽三山を目指す松尾芭蕉と弟子の曾良が通過している。 「蚤虱 馬の尿する 枕元(のみしらみ うまのしとする まくらもと)」の句が『おくのほそ道』に記されている。
- 1840年(天保11年):「川渡」に仙台藩十二代藩主伊達斉邦が滞在
- 1855年(安政元年):「赤湯」に仙台藩十三代藩主伊達慶邦夫人が滞在
近代・現代
- 1915年(大正4年)4月18日:陸羽東線鳴子駅(なるごえき)が開業。
- 1923年(大正12年):宮城県初のスキー場「鳴子スキー場(現:上野々スキー場)」が開業。
- 1932年(昭和7年)10月19日:史蹟名勝天然紀念物保存法(1950年廃止)に基づく文部省告示第288号により、鳴子峡が国指定第二類名勝に指定。(1956年、国指定第二類名勝の廃止に伴い、名勝の指定を解除。)
- 1948年(昭和23年):「鳴子こけし祭り」(現:全国こけし祭り)がはじまる。
- 早稲田大学の学生がボーリング実習で掘り当てた源泉を利用した共同湯「早稲田湯」が開設。
- 1959年(昭和35年)10月1日:「奥鳴子・川渡温泉郷」として、川渡温泉、中山平温泉、鬼首温泉が「国民保養温泉地」に指定。
- 1968年(昭和43年)7月22日:「栗駒国定公園」が指定され、鳴子火山、鳴子峡、鬼首カルデラがその一部を構成。
- 2011年(平成23年):東日本大震災の宮城県沿岸部被災者の二次避難先として受け入れ。
- 2016年(平成28年)5月20日:「鳴子温泉郷」が「国民保養温泉地」に指定。
鳴子温泉と湯治
鳴子温泉の特質として、近隣地域の農民や漁民など、第一次産業従事者の重労働後の「骨休めの場」・「療養の場」として機能してきたことが挙げられます。 江戸時代の湯治人の大半は仙台領内の農民で、たいてい農閑期にやって来ました。毎年続けて来る人が多く、各湯には湯治の目的によってそれぞれの固定客があったそうです。農民のほかに、社会の各階層のものが湯治に来ていました。 湯治は7日間を一廻りといい、湯治期間の区切りとされ、たいてい二廻りか三廻りは滞在していました。湯治人は全部自炊で、日用品や生活必需品は自家からの持込みや宿の内外で購入できる仕組みになっていました。宿によっては将棋や碁のような娯楽設備をもつものもあったそうです。浴場はどこも男女混浴で、身分の高い人のためには特別な浴場が設けられました。 鳴子温泉には家数が百余軒あり、挽物、曲物、漆器等を売る店が並んでいて、周辺の川渡・赤湯に来た湯治人たちもみなここで温泉みやげを購入したそうです。 近代に入ると、東北大学医学部温泉医学研究所・同附属鳴子分院や国立鳴子病院が置かれ、温泉医療施設の充実は東北地方最大でした。 鳴子温泉を含む東北地方では、1泊2食付の宿泊形式を「はたご」と呼びました。その大半は短期滞在の観光客が利用し、若干は湯治客が利用する場合もありました。